
セルロイドジャムと呼ばれるこの住宅は、室外の周囲を途切れることなく囲むように設計された壁が特徴である。それはメビウスの帯のように室内から室外へ出たのち、再び元の位置に戻ってくるように作られている。

窓やドアはこの幾何学的配列に従って切り込みやひねりが加えられている。
前田紀貞アトリエ一級建築士事務所に関するDezeenの情報はPlastic Moon houseを参照。

このプロジェクトに関する建築家からの解説と、前田紀貞氏の建築論は以下の通り。
セルロイドジャム
時間を遡って心を思い巡らす時、どんな場所が思い浮かぶでしょう。足を取られてしまいそうな柔らかくで湿った土、かつて小道として使われていた古い朽ちた階段、古いながら美しい擁壁、そして手つかずの植物。

初めて妙蓮寺にあるこの土地に足を踏み入れた時、我々を魅了したのは草木が青々と生い茂った敷地だけではなく、そのいたる所に敷き詰められた圧倒されるような美しさでした。

建築に関する限り、このような感覚は決して錯乱ではなく、むしろ敷地の魅力に取りつかれたという言うのが正しいでしょう。

言い換えれば、建築とは「敷地に何かを建てる」という意味だけではなく、敷地から提示された「周到な取引(敷地の魅力)」に乗るという意味でもあるのです。

セルロイドジャムの外壁全体を指でなぞると、なぞり始める地点に関係なく、
1) 室外から室内まで途切れることなく一周して、元の地点に戻れます。
2) 指を離さずに室内外のどの場所でも触れることができ、元の地点に戻れます。

外壁から屋根、床、内壁、天井へ途切れることなく続くこの建築から生まれた表面は、継ぎ目のない構造に見える一方で、建築の形自体はいわゆるメビウスの帯(帯を8の字型になるようひねったり曲げたりすることのよって出来る位相幾何学)に切り込みを入れ、開き、さらに折り曲げることによって生まれたのです。
ここに来る人は敷地と建物が一体になったような感覚を持つでしょう。幾何学の力で外壁、植物、部屋、擁壁、テラス、古びた階段、中庭、そしてバルコニーの結びつきを生み出すために、建築と自然という2つの要素を融合させ、徐々に一体成形させていくのです。

この印象を強調させるために、セルロイドジャムの表面全体は継ぎ目が見えない構造になっています。木造の建物は繊維拘束性プラスチック(FRP)で固定され、室内外に独特な表面となだらかな殻の形を生み出します。それにより、局部的な静的荷重が軽減され、同時に静的荷重が均等に分散されます。そこからこの建築の殻は最も自然に近い「卵の殻」のような形になります。

メビウスの帯が敷地に触れる土の上では、自然と建築の境界線は溶け出したプラスチックのように溶けて消えていきます。自然と建築の境界線はもはや物理的なものに過ぎないのです。

建築について
私は2つの相反する方向性が建築に必要だと考えています。
大雑把な言い方をすれば、「型」と「心」になるでしょう。
前者の「型」は、建築物が建築家の際限ない一時的な気まぐれで造られるのを抑える役目を持ちます。「ルール」という言葉を使うと容易に理解できるでしょう。この「ルール」があることで、建築物は立案の過程で建築家の感情が入ることなく、個人的な事情から可能な限り隔絶した個体として生まれます。そのような創造は根本的に「何でも可」という発想ではなく、「すべからず」という制約の上に成り立っているのです。

「ルール」それ自体はスポーツにおけるルールとほとんど同じで、例えば「サッカーでは手を使ってはいけない」というような最初に決められた約束です。この「ルール」が定められた瞬間から、観客にとってわくわくする「建築のゲーム」はスタートするのです。繰り返しになりますが、建築は建築家の気まぐれが入り込む余地のない一定の「ルール」に委ねられるので、建築家の「内面」(感情)は、「外面」(建築物)に簡単に現わせません。これによって軽薄なロマンチシズムは回避され、建築はより数学的な性質を帯びてきます。

不思議な言い方ですが、その現象の中で、建築家は自分の作品を自己以外のものに委ねます。すなわち自己を出来る限り排除した創作過程になるのです。能、盆栽、生け花などの日本の伝統芸術は無限の解釈が可能である反面、それらの大前提は常に「ルール」であり、それはほとんど極限にまで要求される「自己を排除するための儀式と手段」なのです。
後者の「心」とは、複雑な注釈を使って認識論的な説明を後から付けることにより、ようやく理解できる自由意思とは相反するものです。これは建築家の無節操な思考であり、それに触れた物はすべて燃え尽きますし、その周囲の空気の重さや濃度までも「決定づけ」てしまう、過激な気性を持った心のことです。ここまで来ると、自由意思は強力で、強欲で、さらに低俗なものになり、ある種のロマンチシズムにひたすら向かって行くのです。

言い換えれば、「ルール」と呼ばれる制約が定められている限り、ゲーム自体が「展開を想像する心の高まり」となって、選手にとって最も刺激的で想像を掻き立てるものになるのです。創造力は「自己の排除」と「自己の確立」という両極のバランスがうまく保たれた時に初めて、節度あるものになると私は確信しています。

幾何学において、「平行線は決して交わることはない」と定義した「ユークリッド幾何学」と「平行線は交わる」と定義した「非ユークリッド幾何学」は、どちらも一貫した幾何学の学派です。2つの説がお互いに相反する「ルール」でスタートしながら、両者とも「正しい数学」を作り出すことができるというひとつの例を示しています。バスケットボールとサッカーのルールのどちらが正しいか、などという質問を誰もしないのと同じことです。
つまり、建築家にとって本来の創造力とは、外観だけではなく、むしろ「ルール(原理)」によって定められた創造過程にあるのです。建築家の役割はサッカーやバスケットボールのルールを決め、腰を落ち着けて今後のゲーム展開を観察すること、すなわち居住者が日々の生活で感じるものに合った建築を考案することなのです。
日本ではこれらの相反する方向性が「空」と呼ばれています。
「空」は「実在」と「非実在」の間に位置するものですが、決して2つの間を取った便利な表現ではありません。人によっては理解するのが難しいかもしれませんが、「空」とは「非実在」という観点から見た「実在」なのです。例えば建築が「透明」か「不透明」か、という議論は全く時間の無駄です。このような両極の振り子は永遠に揺れ続けます。
建築にとって重要なことは「実在」と「非実在」の「原理」の中にあり、両者を同時に造り出し、両者の違いをも作り出す「空」を突き詰めることにあります。このような考え方は、「両者を調和させること」とは全く違うものです。
例えば、一辺が20cmの正方形の面積を計算する時、私たちはY=X20という関数を使います。もしX=20mならば、Y=400m2となります。20mも400m2も目に見える実在です。けれども一辺が0mの正方形の面積は0m2で、無すなわち「非実在」となります。

それでは「実在」と「非実在」の間にある「空」とは一体何でしょう。
それこそ関数Y=X2なのです。関数とはまさにXに値を代入して、Yを導き出す「機能」です。それ自体は空の箱に過ぎませんが、無限の「可能性」を秘めた箱なのです。
「関数」Y=X2は手で触れることも、見ることもできません。しかし、Y=X2という関数は「実在」しているのは確かです。これが「非実在」という観点から見た「実在」なのです。これこそが「実在」と「非実在」の間にある「空」です。
読者の方々にはこの詳細な説明で、「実在」と「非実在」との間にある「空」が、単なる「便利な表現」でもなければ「調和させること」でもないということを、きっとお分かり頂けたでしょう。

建築とは多かれ少なかれ、この関数同様に何もない「空」を作ることなのです。たとえ「非実在」であっても、「機能」という次元においては「実在」する個体なのです。
それゆえ私が常に強調していることは、建築において特に重要なのは床や壁のような目に見える部分ではなく、それらに囲まれた「空」だということです。
物や素材で囲まれた「空」は「関数」であり、そこに何か(自然とか心)を代入すると、即座に違った答え(様相)が返ってきます。部屋の「空」は外の環境の変化や、自分の気持ちの変化が入った瞬間、どう変わるでしょう。どんな変化が現れるのでしょう。私はそれを問いかけているのです。それを求めているのです。
例えば、平で同じ規格の鉄板の下にふたつの磁石を付けます。見た目は規格も外見も同じです。しかし鉄板の上に砂をまくと、鉄板の状態によって砂の模様が変わります。それは肉眼では見えない鉄板上の「空の起伏」によるものです。建築において私が目指すのは、表面上現れない同じ規格の「空」を、無意識のうちに豊かなものにする「関数」や「仕掛け」を創造することに他なりません。このことは、どの大きさの磁石がいくつ、鉄板の下のどの位置に付けられたかという問いかけと同じです。この行為それ自体が、「型」であり、「ルール」であり、「関数」なのです。

逆い言えば、どんなに個性的な構造で囲まれた「空」を持った建築でも、変化をもたらす力がなければ、そこに豊かさを見出すことは私にはできません。
まとめると、建築家の仕事とは、与えられた条件の中で、どのような「意志が込められ魅力的な型」、すなわち「ルール」であり、「関数」が可能かということを綿密に調べることなのです。
投稿者/ローズ・エサリントン


コメントする